現代写真
アンドレアス・グルスキーが撮った、巨大なスーパーマーケットの棚や証券取引所の群衆写真を思い浮かべてほしい。人間ひとりひとりの顔は判別できず、ただ均質な模様として画面を埋め尽くしている。こうした作品は、もはや「決定的瞬間」を切り取る古典的な報道写真やスナップとは別の目的を持っている。写真はここで、絵画に匹敵する大きさとテクスチャーを備えた展示物へと変質した。
背景には、写真がジャーナリズムや記録の道具という立場を離れ、美術館やギャラリーで絵画・彫刻と同格に扱われるようになった制度上の変化がある。カラー写真が芸術表現として認められるようになったのも大きい。ウィリアム・エグルストンは、ありふれたアメリカの郊外や日用品を鮮やかな色彩で撮影し、白黒こそが正統だとされていた写真の価値観を覆した。またデジタル技術の登場は、グルスキーのような大判・高精細のプリントや、画像の合成・加工を前提にした制作を可能にし、写真は「見たままの記録」から「作り込まれたイメージ」へと幅を広げた。
主題の面でも変化は大きい。ヴォルフガング・ティルマンスは友人たちの私的なスナップからクラブカルチャー、静物までを等価に並べ、写真の階層を崩した。アイ・ウェイウェイやオマー・ヴィクター・ディオプは、写真を政治的発言やアイデンティティの表明の手段として用いる。アーサー・ジャファは映像や写真を通じて黒人の身体表象を批評的に問い直し、hiromixのような作家は日常と自画像を軽やかに撮ることで、私写真という領域を切り開いた。
現代写真を見るときの勘所は、被写体そのものより「なぜこの大きさで、なぜこの見せ方で提示されているか」を考えることにある。壁一面を覆うプリント、素っ気なくピン留めされた小さな紙焼き、加工の痕跡を隠さない合成画像。どれも写真というメディアの境界を試す選択であり、絵画や彫刻と並んで美術館の壁にかけられる現在の写真表現は、なお拡張を続けている。