バウハウス
椅子に座るという行為から出発して、椅子とは何かを問い直した人々がいた。ヴァイマルに開校した造形学校バウハウスは、絵画や彫刻を頂点とする芸術の序列を疑い、家具、印刷物、舞台衣装、建築までを同じ地平で考え直す場だった。初代校長ヴァルター・グロピウスは、職人の手仕事と工業生産のあいだに橋を架けることを掲げ、学生はまず金属や木材、織物といった素材そのものに触れる基礎課程を経てから専門工房に進んだ。芸術家と職人の境界を取り払うという発想自体が、当時としては急進的だった。
第一次世界大戦で敗れたドイツには、旧体制への不信と、社会を一から作り直す機運が満ちていた。大量生産の技術は既に存在したが、それが粗悪な模造品を量産する道具になるか、暮らしを豊かにする力になるかは、まだ定まっていなかった。バウハウスはここに賭け、装飾を削ぎ落として機能から形を導く方法を追求した。マルセル・ブロイヤーが自転車のハンドルからヒントを得て設計したスチールパイプの椅子は、この考え方が生んだ最も分かりやすい成果である。
教員の顔ぶれも運動の幅を物語る。パウル・クレーは色彩と線の理論を、オスカー・シュレンマーは身体の動きと空間の関係を舞台芸術で探った。ヘルベルト・バイヤーは文字のデザインに取り組み、装飾のない幾何学的な書体を作り上げた。オランダ出身のピエト・ズワルトのように、外部から新しいタイポグラフィの発想を持ち込んだ人物もいる。学校はドイツ国内で移転を重ねた末、政治的圧力の高まりのなかで一九三三年に閉鎖されたが、多くの教員や卒業生がアメリカへ渡り、そこで教育や設計の現場に加わった。
いま美術館でバウハウスの椅子やポスターを見るとき、それが単なる工業製品ではなく、生活そのものを設計し直そうとした思想の断片であることを思い出したい。装飾のなさは無個性ではなく、素材と機能への誠実さの表れである。オトル・アイヒャーのように戦後にその理念を情報デザインへ受け継いだ例もあり、今日のプロダクトデザインや文字組みの基準の多くは、この短命だった学校での試行錯誤に遡る。