MOVEMENT

琳派

Rinpa School
17–19世紀 日本 収録作家 8人

本阿弥光悦の家に集った工人たちは、血のつながりを持たなかった。刀剣の目利きを家業とする光悦と、扇絵や料紙装飾を手がける俵屋宗達は、師弟でも親族でもなく、ただ仕事の場と美意識を共有する間柄だった。この緩やかな結びつきこそが、後に「琳派」と呼ばれる系譜の出発点になる。実際の継承は血縁ではなく、誰かの絵を見て憧れ、模写し、自分なりに描き直すという私淑によって行われた。尾形光琳は宗達の「風神雷神図屏風」を見て、ほぼ同じ構図で自らの一枚を描いている。弟子入りの証文もなければ、工房の看板もない。作品そのものが唯一の伝達手段だった。

この様式が育った背景には、京都の富裕な町衆の存在がある。公家や寺社ではなく、呉服商や富商が注文主となったことで、屏風や着物の意匠、料紙、陶器といった実生活に密着した器物に、大胆で装飾的な絵が求められるようになった。金地に群青と緑青を置き、輪郭線を省いて絵具を滲ませる「たらしこみ」の技法は、宗達が確立し光琳が洗練させたもので、写実よりも図案としての強さを優先する。尾形乾山は兄・光琳の絵を陶器の意匠に取り込み、絵画と工芸の境目を曖昧にした。

18世紀末から19世紀にかけて、江戸の酒井抱一が光琳の作品を蒐集し、自らの画業の柱に据えたことで、この系譜は京都から江戸へと移植される。抱一の弟子・鈴木其一は、より硬質で近代的な感覚を加え、酒井道一へと様式は受け継がれた。明治以降は神坂雪佳が図案家として琳派の意匠を再生し、工芸やデザインの領域に橋を架けている。

鑑賞の勘所は、時代も場所も隔たった作家たちが、直接の師弟関係を結ばずに互いの絵を写し、変奏し続けた点にある。同じ「燕子花」や「風神雷神」が繰り返し描かれるのは怠慢ではなく、先人への応答であり、その差異にこそ各作家の個性が表れている。

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この解説は ArtNote 編集部が執筆しています。 誤りを報告する