ダダイズム
チューリッヒの「キャバレー・ヴォルテール」という小さな酒場で、詩の朗読が奇声に変わり、意味のある言葉がわざと崩されていった夜がある。第一次世界大戦のただ中、ヨーロッパの理性と進歩の理念が塹壕の泥と屍のなかで裏切られたと感じた若者たちが、亡命先のスイスに集まっていた。トリスタン・ツァラやハンス・アルプらは、戦争を生み出した論理そのもの、つまり秩序ある芸術の作法をも疑い、笑いと偶然と無意味さで武装することを選んだ。「ダダ」という語自体、辞書を適当に開いて拾った音とも、フランス語の「木馬」とも言われ、その出自の不確かさが運動の性格をよく表している。
ダダは何かを新しく「作る」運動ではなく、既存の価値を「壊す」運動だった。クルト・シュヴィッタースは電車の切符や壁紙の切れ端といった街の屑を貼り合わせてコラージュを作り、ハンナ・ヘーヒやジョン・ハートフィールドは雑誌の写真を切り貼りして政治権力を風刺するフォトモンタージュを生んだ。ゾフィー・トイバー=アルプは木の人形や幾何学的な構成に、遊びと厳密さを同時に持ち込んだ。エルザ・フォン・フライターク=ロリングホーフェンのように、身にまとう衣服や振る舞い自体を作品化した人物もいる。絵筆の技術より、何を選び、どう組み合わせるかという判断そのものが作品になった。
この運動は一つの都市に留まらず、チューリッヒからベルリン、ニューヨーク、パリへと飛び火した国際的な現象だった点も見逃せない。各都市でメンバーは重なり合い、雑誌や展覧会を通じて過激な言葉と図像を交換し合った。マルセル・デュシャンの妹スザンヌ・デュシャンや、夫であったジャン・クロッティのような人脈のつながりも、運動が単なる一枚岩の様式ではなく、人と人の交流によって広がったネットワークだったことを示している。
ダダの精神は一九二〇年代半ばには表向き終息するが、その懐疑と遊びの姿勢はシュルレアリスムに引き継がれ、コラージュやモンタージュの手法は後の美術に広く残った。日本でもハイレッド・センターやchim↑pomのように、街や日常に直接介入する系譜がその延長線上にある。展示室でダダの作品を見るときは、美しさや完成度を探すより、何が壊され、何がわざと不揃いに残されているかに注目すると、この運動の刃の部分が見えてくる。