現代美術
一枚の絵の前に立って完結する鑑賞は、この分野ではもはや前提にならない。映像が流れ、生き物が関わり、観客自身の身体が展示の一部になる。アピチャッポン・ウィーラセタクンの映画的なインスタレーションは、記憶や夢と現実の境をあいまいにしたまま観客を長い時間のなかに置き去りにするし、アキ・インカタは蚕や貝殻など生きものの営みを借りて作品を成立させ、人間だけが作者ではないことを示す。トニー・アウスラーは人の顔を投影した映像を人形やオブジェに映し込み、テクノロジーが人間の表情そのものを乗っ取る様子を見せてきた。こうした作家たちに共通するのは、絵画や彫刻というジャンルの枠組みそのものを疑うところから出発している点である。
背景にあるのは、一九七〇年代以降に加速した映像・情報技術の普及と、美術がグローバルに流通するようになった状況である。ビデオカメラやコンピューター、やがてインターネットが安価に使えるようになったことで、素材そのものが絵具やブロンズから電子機器へと広がった。同時に、欧米中心だった美術の地図が崩れ、アジア、アフリカ、中南米の作家が同じ土俵で語られるようになった。アブドゥライエ・コナテが西アフリカの染織の技法を用いた大画面の布作品を発表し、FXハルソノやアグス・スワゲがインドネシアの政治的記憶を作品化し、イケムラレイコが日本とヨーロッパの両方の感覚を行き来しながら絵画と彫刻を手がけるのは、この地図の組み替えを体現している。
一つの様式に収まらないことこそが特徴であるため、そこに一貫した「見方」を求めると戸惑うかもしれない。むしろ各作品が反応している具体的な出来事や社会状況を手がかりにするとよい。アイザック・ジュリアンは映像を通じて人種やセクシュアリティの経験を語り直し、ネルホルは写真を彫り重ねて時間の経過そのものを物質化する。エレクトロニコス・ファンタスティコスは電子ゴミやガラクタを楽器化し、震災後の日本という状況と結びついた表現を行った。技術や社会が変わるたびに作家の手つきも変わり続けている、その変化の途上を見るのが現代美術鑑賞の勘所である。
今この瞬間も更新され続けているという点で、現代美術は歴史のなかに固定されたページではない。ここに並ぶ作品は完成した答えというより、作家たちが同時代の技術や社会とどう格闘したかの記録である。だからこそ、解説を読むよりもまず映像の前に立ち止まり、素材に触れられるならその手触りを確かめてほしい。判断を急がず、違和感を持ち帰ることこそがこの運動との正しい付き合い方だと言える。